――――― 浄玻璃(じょうはり)の鏡 ―――――

 

 

 

 

人間があの世に旅立つ時、悪事を犯したものはその鏡の前に立つ。

『お前は何の悪事を犯した?』

地獄の入り口で閻魔大王が問いかける。

『いえいえ滅相もございません。私はいたって善良な人間でしたから……』

『ならばこの鏡の前に立ち、己の姿を見つめてみるが良い』

 

それは鏡の前に立った人間の過去を全て映し出す、

不思議な力をもった秘宝の鏡だった。

映った者の嘘も虚栄も、おぞましい心の隙間の全てを映し出す。

自分の醜さや汚さを露呈された者は、閻魔大王に地獄へと送られるのだ。

 

 

だがそれはこの鏡の一つに過ぎなかった。

鏡にはもう一つの力があり、未来を映しだす力もあるという。

その力があまりにも強大なため、鏡の力は二つに分けられた。

一つは閻魔大王の手元へ、そしてもう一つは別の場所へ……

 

対の鏡の存在を知っているのは、閻魔家の人間と、ほんの一部の神のみ。

未来を映し出す鏡の所在は、閻魔家の人間ですら知っているものは少なかった。

過去を映し出す鏡は、誰にとっても忌まわしいものであったが、

未来を映し出す鏡は、逆に誰もが手に入れたいと思う鏡だった。

誰よりも先に未来を知り、その営利を得るために……

 

 

ある日、珍しく城内がざわざわと落ち着かないことに気づいた。

 

 

「なぁ、何かあったのか?」

 

 

城の女官に声をかけると、女官はその袖口で口元を隠し、

塔天にひそひそと小声で呟いた。

 

 

「それが大変なのよ。珍しく天帝がこの城にお見えになるらしいの。

 姫様に会いにみえるのよ。

 ……けど、お気の毒に……」

「え?気の毒って……なにが……?」

「いえね、姫様を天帝の御側にっていう話が出ているらしいのよ。

 今の天帝はかなり無理な統治をなさっているから、

 あちこちに敵が多いんでしょうね。

 そこで役に立つのが姫様の鏡の力……

 
自分の未来を見通してもらえれば、そんな素晴らしいことはないでしょう?

 神通力をお清めになるために、おそらくはどこかの神殿に

閉じ込められて過ごされることになるんでしょうね……」

「それって、ここから出て行くって……こと……?」

「まぁ、そうなるかしら。

 けど、ここにいても、天帝の御側の神殿にいっても大して変わりないかしら。

 だって、部屋に閉じ篭りっ放しなのは変わらないわけだから……」

「……そんなっ……!」

 

 

塔天はその話を聞くと、真っ青な顔をして中庭を駆け抜けた。

愛しい姫を失うかもしれない。

そう考えるだけで息が出来なくなる。

天帝の元へ行ってしまえば、もう会えないかもしれない。

あの愛くるしい笑顔も、優しい歌声も、馨しい香りも、

二度と感じる事が出来なくなってしまう。

今にも泣き出しそうな顔で、塔天は殷姫がいる部屋の小窓まで向かった。

 

 

 

息を切らしながら彼女の部屋の窓辺にたつ。

誰かに見られないように、周りの気配を探る。

すると、部屋の中からは少女のすすり泣く声だけが聞こえてきた。

 

 

「……なぁ……大丈夫か……?」

「……塔天……?」

 

 

顔を上げた殷姫の目蓋は赤くはれ上がり、

かなり前から泣き通していたことを示していた。

 

 

「私、イヤ……!

 天帝のところへ行くのなんてイヤ!

 ここを離れるのはいや!

 ……塔天の側を離れるなんて……嫌……ぜったい……いや……!」

「……俺だってやだよ……

 けど、どうしたらいい? 今の俺の力じゃどうすることも出来ないし」

 

 

塔天の瞳からも思わず涙が溢れ出す。

彼女を失うぐらいなら、いっそのこと死んだしまったほうが

どんなにかましだろう……

そう思った瞬間、塔天の頭にひとつの考えが浮かんだ。

 

 

「……二人で……ここから逃げ出そう……」

「……塔天……」

 

 

 

二人で城を抜け出す決心をした日の夜、

塔天は彼女の手を取り、生まれ育った城を抜け出した。

地位も名誉も、安定した生活も、彼女に比べれば何の価値もないに等しい。

そしてその夜、二人は永遠の愛を誓い合った。

 

 

手に手を取って天界を逃げ出した二人は、

下界の街外れでひっそりと身を隠して暮らしていた。

城の中の生活とは違い、勝手がわからないことだらけだった。

それでも二人で勝ち得た自由な生活は、幸福感で満ち溢れていた。

 

誰よりも美しく優しい妻。

聡明で誰よりも妻を愛する夫。

周りから見るとままごとのような生活でも、

二人は毎日が楽しく幸せだった。

 

やがて殷姫は塔天の子をその胎内に宿した。

 

 

「ねぇ、塔天、おなかの中の子供って、男の子かしら?それとも女の子かしら?」

「う〜ん、そうだなぁ、殷姫にそっくりな可愛い女の子かもしれないな?」

「あら、そうだとしたら、貴方は私と子供、一体どっちが一番好きになる?」

「……おい、おい、生まれる前からそれはないだろう……」

「ふふ……冗談よ。

 私は貴方のような聡明で雄々しい男の子がいいわ……」

「そうだな……いずれにしろ、女の子だったら次は男の子、

 男の子だったら、次は女の子をもうければいいじゃないか」

「まっ、塔天ったら気が早いのね……」

 

 

二人は顔を見合わせて微笑みあう。

今ここにある幸せが、永遠に続くものと信じて疑わなかった。

 

 

 

 

だが、そんな幸福も長くは続かなかった。

 

 

 

いよいよ殷姫の出産が近いと知ると、

塔天は生まれてくる子供のための衣類などを買い揃えるため

一人で街まで買出しに出かけた。

生まれてくる愛しいわが子の姿を思い浮かべながら、

塔天は一通り必要なものを買い揃えると、

急いで殷姫の待つ我が家へと脚を運んだ。

 

帰り道の途中、季節外れの雨に降られ、

塔天は一本杉の木下で雨宿りをしていた。

すると、けたたましい稲光と共に、眩しい二色の光が空めがけて飛び散った。

眩いばかりの金色と銀色の光……

上空でその光は弾け飛び、金色の光はその遥か彼方へと落下したように見えた。

 

瞬間、いやな予感が塔天の脳裏をよぎる。

 

『……まさか……』

 

雨が止むのも待たずに、塔天は殷姫の待つ家を目指し駆け出した。

泥まみれになり辿り着いた家で彼を待ち受けていたものは……

 

見るも無残に荒らされた我が家と、

その傍らで深い眠りに着いた殷姫の姿だった。

 

 

「お前っ……! 殷姫っっ!!」

 

 

その身体はまだ少し暖かかった。

だが、息は既になく、美しかった紫水晶の瞳は二度と開かれる事はない。

 

 

「……姫っ……」

 

 

声にならない声で泣きながら涙を流す。

 

 

「一体、誰がこんなことをっ……」

 

 

すると、印姫が大切にしていた髪飾りが薄く光った。

塔天が思わずその髪飾りを手にすると、

髪飾りはまるで鏡の如く、殷姫の過去を克明に映し始めたのだった。

 

塔天に出会うまでの哀しい毎日。

出逢ってからの幸せな日々。

そして……今日、不幸な運命を辿ったいきさつを……

 

彼女を死に追いやったのは、天帝の刺客だった。

天帝が追い求めたものは、彼女ではなく、

彼女が持つといわれる浄玻璃の鏡だった。

それも未来を映し出すといわれる双極の鏡。

 

刺客に追い詰められた殷姫は、鏡をその手で砕いた。

悪人の手に渡りそうな時は、鏡を自らの手で砕く事。

それが守人に課せられた使命だった。

同時にそれは守人の死をも意味する。

鏡は殷姫の魂の源を司る大切なものなのだから……

 

『塔天……ごめんなさい……

 貴方とおなかの子と、これからもずっと一緒にいたかった。

 誰よりも大切な貴方ともっと同じときを過ごしたかった。

 けど、鏡が天帝の手に渡れば、この世は崩壊してしまう。

 貴方が生きるべき世界すら、やがては全て失われることになる。

 だから……私はこの鏡を守るために、永い、永い旅に出ます。

 いつかまた貴方に会えることを……願って……』

 

それが最後に残された殷姫からのメッセージだった。

 

鏡は砕かれ二つの魂が鏡の中から飛び出した。

ひとつは遥か彼方へと飛び散り、もうひとつは……

 

まだ、彼女の胎内に……残されていた……

 

 

「……まだ、子供の鼓動がある……」

 

 

塔天は、愛しい妻の亡骸から、胎児を自らの手で取り出した。

妻の腹部を己の太刀で切り裂き、血だらけの胎児をその手にする。

瞬間……塔天の中で、何かが弾け、彼の中で別の人格が覚醒した。

 

そう……復讐鬼としての李塔天が、今ここで目を覚ましたのだった……

 

 

 

 

 

 

 

 

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 銀糸伝説        其の六